HakuTouGin

年來自分が考へた叉自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力を込めて現在に働けというのが乃公の主義なのである。                      「倫敦消息

2006/04/26

読了本 THE DAY OF THE JACKAL


Frederick Forsyth, The Day of the Jackal, 1971, 1995 Bantam Books.

いやおもしろいな.目が疲れるわ.しかしやはりドゴール政権の歴史をあんまりしらないという.そしてフランス語の知識が貧弱だから,こう,地名とか人の名前とかうまく読めない.フォーサイスのもの後何を読もう,と思うのだが,そういえば,むかーし『イコン』とか『神の拳』とかを近所の図書館で借りてよんでしまっている記憶があるから,後残り僅かなんじゃないかと.どうせ筋なんか覚えていないんだから,いいんだが,わざわざ買うのもなんだかもったいない.

2006/04/21

読了本 OUT OF PLACE



Edward W. Said, Out of Place: A Memoir, 1999, Vintage Books, Random House, Inc.
泣く子も黙るサイードの自伝.とはいえサイードの書いたものを読んだことはない.新聞とか雑誌の小さいのは読んだことがあるかもしれないが.生まれてから大体大学院生までのことを書いてあった.順繰りに時系列にそってというよりは,ややテーマ別で,父のこと,母のこと,親戚兄弟友達のこと,アメリカ旅行のこと,とかとかがちょっとづつちょっとづつ年代を行ったり来たりしながら語られていくので,こいつ誰だっけな,とかなる.また,僕は中東近代史も音楽にも不明なので,そんなに読みやすくはない.結構ごちゃごちゃしているんですよ.がまあ人の思い出ってそんなもんかもしれない.大学生くらいの話に,どんな勉強したとかに,やっぱ興味があるのだが,だいたい高校卒業するまでで6分の5以上費やしてた.

小さいときは,結構ダメな子供で問題児だったようで,しかも,わんぱく坊主で困った,とかじゃなくて,なんかぼーっとしてるわ,運動も役に立たんわ,うじうじしてて人の目もちゃんと見れないわ,みたいな感じで,読んでいると,いろいろ正直に書いているようで,読んでいるこっちもなんかいたたまれなくなるような出来事だらけだった.自慰行為を見つかって親にしかられたり,社会見学もぼーっとしてるからお前最低やみたいな感じでぼろくそにしかられたり,キャンプにいったらみんな一個しかホットドッグ食べてないのに盗み食いしておまえ帰れよみたいにまためっちゃ怒られたり,と.勉強はまあできたようだ.

学年が上がって中高くらいいくと,そんなうじうじってこともないようだが,今度はちょっとやんちゃで,エジプトの高校では仕舞いには放校されかけていた.成績もあんまよくなかったようだ.市民権の都合とか何やらで結局アメリカの全寮制高校にいくと,何がどうなったのか,学年1番か2番かを行ったり来たりするようになった.もともと賢かったのか,アメリカの高校勉強が知れているのか,何か色々動機づけがあったのか.勉強しかすることねえ,というのはあったようだ.水泳とテニスも結構頑張ったらしい.あんまりしっかりしてこなかったピアノも,先生に教えてもらいながら,結構練習したようだ.学年トップなのに卒業生総代に選ばれないのはやはり肌の色がきいたようだ.

学部はハーバードとプリンストン両方受かってプリンストンに行ったそうだ.ただ1950年代当時のプリンストンは,まあ他もそうなのだろうが,今の大学とは天地の差で,差別の厳しい,変な制度とかもいっぱいあって,あんま楽しくなかったようだ,勉強を除くと.やはり優秀だったようで,'fat' な奨学金を手に入れてハーバードの院に行ったそうだ.ピアノも相当出来たようで,ちょっとくらいはプロになろうかとも考えたらしい.

自伝とは不思議なもので,最初は結構単語も難しいし半分嫌々ながら読んでるんだが,ちょっとづつちょっとづつ,上に書いたことなんかよりもっと細かく細かく豊富な,サイードが経験してきたことを追っかけて(いちよう)体験していくと,だんだんと飲み込まれていって,自分が他人のをもう一人生分やってるような気になっていく.いついつ住んでいた家の前はこんな形の広場で...とか一つ一つの出来事は,いってしまえば,どうでもいいことばかりなんだが,気付くと読みふけっている.

2006/04/19

14, 15, 16, 17個目

おちおち @ NYU, UCLA, UCSD, and Washington St. Louis PNP.
UC二つは結構粘ったな.特にSDは昨日づけでー教えるのがめんどかったのか,補欠に入っていたのか.いや,前者か.UCLAは最初に切られた人は二月くらいに連絡がいってるらしいので,まあ粘った.としておこう.

2006/04/17

読了本 『うさ男とねこ男』



読了っていうか,紀伊国屋で立ち読みしただけです.買ってません作者の人,ごめんなさい.買おうかと逡巡してるうちに読み終わるスムースな展開.結構面白い.

しかし,「うさ男とねこ男」はただの固有名ではなく,明らかに意味を持っている.日本語話者ならどうみてもこの題名に納得出来るし,なんでこういう題名かっていうことも予想出来る.だってうさぎっぽいのとねこっぽいのが登場人物だから.このあからさまな事実をどうして哲学者が無視出来るだろうか.もし意味論がこの経験的事実をとりこまないとしたら,それは不完全に違いない.というわけで,語彙レベルの意味論は絶対不可欠だ.例えば,
[うさぎ:n, 白っぽい,...]
[ねこ:n, にゃあと鳴く,... ]
[~男: 名前っぽくなる,...]
とかそしてこれらが構成されでかくなる手続きとかを示さなければならないだろう.しかし,名前に記述が張り付いているみたいな話ではない.この「うさおとねこお」という言葉やこの本の中に出てくる台詞を僕らがどう理解するのか,ということを取り扱うためには,意味論は内在的なものにならざるをえないと思う.だから「虎」の本質主義的な記述って何?とかいう話は関係ないんじゃないかというのが今の予想.意味論と認識論を同時になぜしたがるのか.心的なリソースをどう働かせて,うさおとねこおが理解できるようになるのか,という話をするのがよいんじゃないかと.しかし自然と単純観念から複合観念へ,みたいな話になる.んでやっぱり心的言語みたいなんがあるのかないのか,なんでいそいつは,みたいな話もしなくちゃならなくなるなあ.まったくわからんが.かといって真理条件的意味論の蓄積がやりなおし,ではなくて,完全に継承発展されるだろう,ていうところもある.ややこいなあ.

2006/04/12

読了本

Christopher J. Koch, The Year of Living Dangerously, 1978.
もともと ABC (Australian Broadcasting Comssion) のプロデューサーとして働いていた人の小説.舞台はスカルノ政権末期のインドネシア.ジャーナリストのハミルトン,そのカメラマンで中国系オーストラリア人のクワン,そしてその二人がともに愛したイギリス大使館のジルの関係を描きつつ,西洋人ジャーナリストの姿やインドネシアの人々の暮らしなどを記す.

人に借りたので読んでみる.映画になったらしい.題名はこれだろうか?ベトナム戦争とかに比べても,このころのことは全然そういえば知らないなあ,と思う.多分1964-5辺りでスカルノが失脚するまでの最後の一年を綴っていると思うんだが,そこからスハルトに行く経緯とかもよく知らなかった.スカルノという人は凄いカリスマだったんだろうなあ.ほぼ神権政治で,島々にはヘリコプターで舞い降りて,島民からしたら魔術による降臨としか思えなかった,とかなんとか.しかし最後の方でデヴィ夫人の名前が出てきてばびった.そらまあそうか.この最後の時期に恩寵を受けていたのか.こんなしっちゃかめっちゃかの時期を生き延びてきたんだから結構な生き証人なんだなあ,と感心.

哲学の勉強を始めると小説まで手が回らない,がちゃんと読まなきゃいけない.量量.

2006/04/10

分析哲学と自然主義

誤解を招くような書き方しか出来ないのははっきりと考えがまとまっていないからだが,まあ何となく書いてみる.前々から言っていることだが,分析哲学という名称はそんなに長持ちしないと思う.そしてあんまりよろしい哲学のスタイルではないと思う(もしそんなスタイルがあれば).なんで言語分析で哲学の問題が解けるんだYO! というのが基本的な問題だ.

何が何と呼ばれるかとか,巷でどう評価されるかとかは歴史的地理的偶然の影響があまりに大きいので,どうでもいいちゃどうでもいいんだが,基本的に,分析哲学というのは,やはり非常に限定的に,特定の期間の特定の人々のスタイルをさすときのみに使われるべきなんじゃないかなあ,と,思ったりする.言語分析ばりばり思考実験ばりばりみたいな人たちを(これをきれいに定式化するのが一番大事であろうがまあそれは今後ということで).

以下臆見だが(相当臆見であるため書いているうちに気が変わることがある),対立軸をおくとしたら,やはり分析哲学っぽい人たちと,自然主義っぽい人たちの間に区別を認めるのが,一番もっともらしいと思う.そして,自然主義っぽい人というのは,なんだか近代哲学者に似てくるし,素直にその議論を継承発展しているようにみえるんだが,どうだろう.もちろん僕は,自然主義っぽくいくのがよいと考えている(ここでの「自然主義」は非常に広い解釈で,単に世界の事実を用いる,ってな位で,あんまり興味深い概念でないかもしれない.だってそんなのほとんど誰でも自然主義者じゃん).

チョムスキーが言っていて感心したことがある.これは非常に素直な意見だと思うんだが,言語哲学者はダブルスタンダードである,というものだ.物理学の哲学やってますとか,生物学の哲学やってます,という人は,物理学や生物学をかなりちゃんと勉強している.ところが,言語の哲学やっています,という人は言語学の勉強をしようとしない.なんでやねん,と.まあ,言語学があまりに若い学問過ぎて,勉強するも何もございませんでしたよ,という所もあるんだろう.しかし,もはやその言い訳は通用しない世代となりました.

だからなんだか,英米の哲学はこれだ!というようなノリで,言語学以前の古き良き(?)分析哲学言語哲学をみせつけられても,うーん.となる.とはいえ,言語学と言語哲学は関係ないんだYO! と主張する英米人は未だ凄く多いと思うが.あんまり説得力は無い.


とまあ,書いてみたが,あまりにしっくりこなすぎる.読みにくいし.やはり,こうした哲学そのものについてではない(よくてせいぜいメタ哲学といったところか)よた話はやるだけ時間の無駄,ということかな.

2006/04/06

年金問題と ipod

年金をなんとかするために役所に行こうと,ジョギング以外に久しぶりに外に出た.チャリに久しぶりにのっていると,おお桜が咲いているじゃないですか.春の陽気を楽しみ走りつつ,周囲を見渡したりしていたが,不審者と思われたくないし,あんまり風景を愛でるのはジジくさくて嫌だなあ,と思い直して,年金の計算でもしながら役所に向かった.なんだか学生控除が受けられないそうで,僕学生なのに.若年者控除とかなんとか,何にせよ,年金とか俺歳取ったとき大丈夫なのかよ,と思う.まあまだ払っていないのでなんだが.久しぶりに外に出たので,外の空気をエンジョイすべく,漫喫へ.といっても1時間.あまり落ち着かなくて,一,二時間以上はいたことが無い.

ところでipodがうんともすんともいわなくなっていて困っていて,何となく検索かけたら,「ipod 動かない」で!解決策が見つかってよかった.ipod なしには走りにいく気も起きない.しかし,それが悪いのか?あんまり揺らさないように走るべきだろうか?

あとは台所の魚グリルを掃除したりしていると日が暮れた.今日はサンマを焼こうと思ったので.油がぎとぎとにこびりついているのを,ビニル袋の即席手袋でガードをしながら,新聞で拭い取っていくのです.まあ汚い.ここまで放置するとよくねえなあ.油を拭った新聞は魚くさくて産廃のようだ.

1日7時間くらいしか寝てないのに妙にあっという間に日が暮れる.

2006/04/04

読了本

Antonio Damasio, Looking for Spinoza: Joy, Sorrow, and the Feeling Brain, Harcourt, 2003.
Frederick Forsyth, The Deceiver.

四月に入ったのでそろそろ激しく活動しないと.てか,年金をどうにかしないと.漫喫に行く気もしないのに役所に行く気はもっとしない.小説は四月中に手元のペーパーバックをすべて潰すこと.同時にまじめな勉強も始めること.ぼちぼち吹田に行って本を借りること.吹田遠いなあ.