分析哲学と自然主義
誤解を招くような書き方しか出来ないのははっきりと考えがまとまっていないからだが,まあ何となく書いてみる.前々から言っていることだが,分析哲学という名称はそんなに長持ちしないと思う.そしてあんまりよろしい哲学のスタイルではないと思う(もしそんなスタイルがあれば).なんで言語分析で哲学の問題が解けるんだYO! というのが基本的な問題だ.
何が何と呼ばれるかとか,巷でどう評価されるかとかは歴史的地理的偶然の影響があまりに大きいので,どうでもいいちゃどうでもいいんだが,基本的に,分析哲学というのは,やはり非常に限定的に,特定の期間の特定の人々のスタイルをさすときのみに使われるべきなんじゃないかなあ,と,思ったりする.言語分析ばりばり思考実験ばりばりみたいな人たちを(これをきれいに定式化するのが一番大事であろうがまあそれは今後ということで).
以下臆見だが(相当臆見であるため書いているうちに気が変わることがある),対立軸をおくとしたら,やはり分析哲学っぽい人たちと,自然主義っぽい人たちの間に区別を認めるのが,一番もっともらしいと思う.そして,自然主義っぽい人というのは,なんだか近代哲学者に似てくるし,素直にその議論を継承発展しているようにみえるんだが,どうだろう.もちろん僕は,自然主義っぽくいくのがよいと考えている(ここでの「自然主義」は非常に広い解釈で,単に世界の事実を用いる,ってな位で,あんまり興味深い概念でないかもしれない.だってそんなのほとんど誰でも自然主義者じゃん).
チョムスキーが言っていて感心したことがある.これは非常に素直な意見だと思うんだが,言語哲学者はダブルスタンダードである,というものだ.物理学の哲学やってますとか,生物学の哲学やってます,という人は,物理学や生物学をかなりちゃんと勉強している.ところが,言語の哲学やっています,という人は言語学の勉強をしようとしない.なんでやねん,と.まあ,言語学があまりに若い学問過ぎて,勉強するも何もございませんでしたよ,という所もあるんだろう.しかし,もはやその言い訳は通用しない世代となりました.
だからなんだか,英米の哲学はこれだ!というようなノリで,言語学以前の古き良き(?)分析哲学言語哲学をみせつけられても,うーん.となる.とはいえ,言語学と言語哲学は関係ないんだYO! と主張する英米人は未だ凄く多いと思うが.あんまり説得力は無い.
とまあ,書いてみたが,あまりにしっくりこなすぎる.読みにくいし.やはり,こうした哲学そのものについてではない(よくてせいぜいメタ哲学といったところか)よた話はやるだけ時間の無駄,ということかな.
何が何と呼ばれるかとか,巷でどう評価されるかとかは歴史的地理的偶然の影響があまりに大きいので,どうでもいいちゃどうでもいいんだが,基本的に,分析哲学というのは,やはり非常に限定的に,特定の期間の特定の人々のスタイルをさすときのみに使われるべきなんじゃないかなあ,と,思ったりする.言語分析ばりばり思考実験ばりばりみたいな人たちを(これをきれいに定式化するのが一番大事であろうがまあそれは今後ということで).
以下臆見だが(相当臆見であるため書いているうちに気が変わることがある),対立軸をおくとしたら,やはり分析哲学っぽい人たちと,自然主義っぽい人たちの間に区別を認めるのが,一番もっともらしいと思う.そして,自然主義っぽい人というのは,なんだか近代哲学者に似てくるし,素直にその議論を継承発展しているようにみえるんだが,どうだろう.もちろん僕は,自然主義っぽくいくのがよいと考えている(ここでの「自然主義」は非常に広い解釈で,単に世界の事実を用いる,ってな位で,あんまり興味深い概念でないかもしれない.だってそんなのほとんど誰でも自然主義者じゃん).
チョムスキーが言っていて感心したことがある.これは非常に素直な意見だと思うんだが,言語哲学者はダブルスタンダードである,というものだ.物理学の哲学やってますとか,生物学の哲学やってます,という人は,物理学や生物学をかなりちゃんと勉強している.ところが,言語の哲学やっています,という人は言語学の勉強をしようとしない.なんでやねん,と.まあ,言語学があまりに若い学問過ぎて,勉強するも何もございませんでしたよ,という所もあるんだろう.しかし,もはやその言い訳は通用しない世代となりました.
だからなんだか,英米の哲学はこれだ!というようなノリで,言語学以前の古き良き(?)分析哲学言語哲学をみせつけられても,うーん.となる.とはいえ,言語学と言語哲学は関係ないんだYO! と主張する英米人は未だ凄く多いと思うが.あんまり説得力は無い.
とまあ,書いてみたが,あまりにしっくりこなすぎる.読みにくいし.やはり,こうした哲学そのものについてではない(よくてせいぜいメタ哲学といったところか)よた話はやるだけ時間の無駄,ということかな.
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