HakuTouGin

年來自分が考へた叉自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力を込めて現在に働けというのが乃公の主義なのである。                      「倫敦消息

2006/04/17

読了本 『うさ男とねこ男』



読了っていうか,紀伊国屋で立ち読みしただけです.買ってません作者の人,ごめんなさい.買おうかと逡巡してるうちに読み終わるスムースな展開.結構面白い.

しかし,「うさ男とねこ男」はただの固有名ではなく,明らかに意味を持っている.日本語話者ならどうみてもこの題名に納得出来るし,なんでこういう題名かっていうことも予想出来る.だってうさぎっぽいのとねこっぽいのが登場人物だから.このあからさまな事実をどうして哲学者が無視出来るだろうか.もし意味論がこの経験的事実をとりこまないとしたら,それは不完全に違いない.というわけで,語彙レベルの意味論は絶対不可欠だ.例えば,
[うさぎ:n, 白っぽい,...]
[ねこ:n, にゃあと鳴く,... ]
[~男: 名前っぽくなる,...]
とかそしてこれらが構成されでかくなる手続きとかを示さなければならないだろう.しかし,名前に記述が張り付いているみたいな話ではない.この「うさおとねこお」という言葉やこの本の中に出てくる台詞を僕らがどう理解するのか,ということを取り扱うためには,意味論は内在的なものにならざるをえないと思う.だから「虎」の本質主義的な記述って何?とかいう話は関係ないんじゃないかというのが今の予想.意味論と認識論を同時になぜしたがるのか.心的なリソースをどう働かせて,うさおとねこおが理解できるようになるのか,という話をするのがよいんじゃないかと.しかし自然と単純観念から複合観念へ,みたいな話になる.んでやっぱり心的言語みたいなんがあるのかないのか,なんでいそいつは,みたいな話もしなくちゃならなくなるなあ.まったくわからんが.かといって真理条件的意味論の蓄積がやりなおし,ではなくて,完全に継承発展されるだろう,ていうところもある.ややこいなあ.