HakuTouGin

年來自分が考へた叉自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力を込めて現在に働けというのが乃公の主義なのである。                      「倫敦消息

2007/03/18

朝読んでたもの

S. Jack Odell, "Life is not Absurd" in Metaphilosophy vol.14. no. 3&4, 1983.

どこかにコピーがぽんとおいてあったので何となく複写しておいたもの.トマスネーゲルが書いた1980 "The Absurd"という論文に対抗したものらしい.

ネーゲルはこう進めたそうだ.「あほらしさ」とはなんだろう.ナイトの称号を受けとってるときにズボンがずり落ちたらそれはあほらしい(すんごい例え!).一般化すると,自負やてらいといったものと現実とが衝突してしまうこと,があほらしさである,と.どんな暮らしぶりをしていても,いろいろ決めたりしなければいけず,本気に,まじめに暮らしを取り扱うということが不可避である(ある行動をとって他の行動をとらないんだから).しかし,僕らが一歩立ち戻って自分の目的,やりたいこと,などなどをみつめたとき,それらが実に恣意的なこと偶然的なこと,どうでもいいことに気付かざるを得ない.真面目さと,その真面目に取ってるものに対する懐疑の衝突があほらしい.そのように冷静に自分のしたいことを見つめながら,あいも変わらず何かを続けている,という点にあほらしさがある,と.

著者はネーゲルに反対して,ある種の経験には内在的な価値があってそういう経験をすることが僕らの暮らしをあほらしいものとしない,という結論なんだけどあんまり感心しなかったのでさておく.

ネーゲルのはなしの方がおもしろいとおもう.東西問わず,「あほらしさ」「無情さ」ということに関する直感的な理解は皆あると思う.いやというか,この absurdity というのは無情さのことと取ってよいのかな? 恣意的な要素がふえると,うたかたさが増えると,ああ,あほらし,とか無情や,という判断を加える傾向があるのではないだろうか.恣意性が高いからといって何でそう感じるのかは謎な気もする.