HakuTouGin

年來自分が考へた叉自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力を込めて現在に働けというのが乃公の主義なのである。                      「倫敦消息

2007/02/12

コメント欄

コメントがいくつか来ていたのにやっと気付きました.設定で僕が承認しないといけないようにしていたようです.いまさらですが,コメントしてくれた方々ありがとうございます.息災です.

なぜ日本語の主語は省略できるのか,というのは興味深い問いです.しかしそこから何が出てくるのか,という問に答えるのは僕は心底難しいと考えています.

文法的に許容可能でも意味的にダメ,という現象があります.

先生「太郎と花子のどちらが手伝ってくれるの?」
太郎「手伝います」

この「手伝います」は意味不明です.もしくは身振りや手振りなどで太郎自身か花子を明らかに指でさしたりしないと,どちらが手伝うのか不明です.しかし「手伝います」は文法的だと日本語話者は感じます.すると,いわゆる主語,がなくてもいい,と日本語話者が感じるという現象は文法だけに関する現象なのかも知れません.意味に関しては,上の会話をダメとわれわれは感じるからです.

文法を司る機構が進化論的に発達したとします.その機構の状態いかんである文が文法的か文法的でないか判断されるとします(最終的に話者が文法的か否かの判断を下すという現象の直接の原因がその機構の状態であるとします).日本語話者はその機構が*とある*状態にあるので,「手伝います」を文法的だと判断します.

すると,「私は」を落とすという現象から日本人は特有の発想をもっているという結論は出てきません.少なくとも,全く違う話です.上の機構云々は一種の仮説で間違っているかもしれません.しかしあってるかもしれません.一般に,文化や歴史をの影響というのは複雑すぎて,興味深い科学理論というの生まれないということを示すだけなのかもしれませんが.

少し違う話ですが,一般に僕は20世紀言語哲学の方法に懐疑的です.言葉がそうなっている,ということから世界がそうなっている,あるいはわれわれの知識がそうなっている,と結論するのは簡単なことではないと思います.例えば強烈なある種の存在論的コミットメントがないと,そういう結論は出てきません.もし言語哲学ができるなら,むしろ,なぜそんなことが出来るのか,という問いに答えることの方がおもしろいと思います.なぜ自然言語の表現をいじくっていると,数学の一部である論理学の知識が手に入るのか,というようなことです.論理的に可能な空間を少し探索すると気付くことですが,自然言語はなんだか全く恣意的な制約を沢山もっています.制約の説明は,進化論的な偶然か,生物学的な制約か,計算機科学的な制約かなどになると思います.非常に恣意的な自然言語の特徴にふりまわされて哲学をするのはよくないというのが,僕の暫定的な結論です.自然言語とBegriffsschriftは違うとみんな口を酸っぱくして言うのに,なんで,ということがままあるのです.

1 Comments:

Anonymous 匿名 said...

やっとコメントに気づいてくれましたね.ちなみに,あれは確かにちょっと誤解を招く書き方でしたが,単に「導入」として日本語では「私」という主語を除くことが多い.という話が出てきただけの話です.まあでも,実際に母語にそういう特性があると,諸外国語と比べて「そういや"私"を省略することが多いなあ」と思うことは多いでしょう.そこから「それをヒントにして」欧米人ならあまり出てこないような「『私が』ではなく『私において』」という発想が日本人において出てくる,というのはありうると思います.「"だから"『私』が省略される」という意味ではなくてね.

12:04 午後  

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