HakuTouGin

年來自分が考へた叉自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力を込めて現在に働けというのが乃公の主義なのである。                      「倫敦消息

2007/03/17

意味論文化横断風

たまには哲学の話,てっもそうでもないけど,ちょっとわろたので.Cognition の論文.

Machery, Mallon, Nichols, and Stich, 2004 "Semantics, cross-cultural style", cognition 92.

名前の意味論の話で,記述主義か指示の因果説かの話だけど,ここではアメリカ人と香港人に,実はシュミットがゲーデルの定理を発見したとするとーていうストーリを与えて「ゲーデル」って名前が記述的に対象を指示するかどうか質問する,と.すると,あらびっくり,香港人ではより記述主義に傾く,という結果.東アジア人と西洋人の間には意味論的直感に関して文化的差異があるのではないか,というのが結論の一部.

意味論的直感というのは扱いが難しい,というのは賛成.でもなんか実験がすごくしょぼいのでそんなんでいいのーという感じ.あと Westerners と East Asians というすごい荒いくくりに笑た.

意味論的直感の差が何に起因するのかは大いに謎.文化的な差?文化的な差があるとして,どういうレベルなのだろう.ある種の経験をする確率が高いので特定のリーディングが生起する確率が高いということを学習しているだけ,かもしれないし.何かパラメターが意味論を司る内在的な機構にあるとして,それの値が第一次言語に応じて異なっているかもしれない.なんにせよこのペーパーでは何も分からない.それはともかくスティッチの分析哲学批判(?)はいつも好き.

10 Comments:

Anonymous 匿名 said...

上の話にも通じるけど,哲学理論って「いかに直感と合うような・直感を説明できるような理論をつくるか」というところがありますよね.だから,その肝心の「直感」がひとそれぞれだとこまるという.科学のdemarcation problemもそもそも「何が科学か」という直感が違うと議論にならない.そういう意味じゃ,その実験?は面白いと思う.実際,ある理論の反例として出されたものが,人によっては検証例のように見えるときあるものね.そうなると,「そもそも科学と疑似科学は分けられない」とかそんな話になるけど,それを言っちゃあ,研究者はお飯の食い上げだろう,と.

7:32 午後  
Blogger urbe said...

言語哲学者に取ってラボノートにあたるものが一体何か,というのは大事な問いだと思います.言語哲学の被説明項が「僕たちあれやこれやの直感」であって他の何ものでもない,とどうどうと言っている人はそうそういない(と思います)わけです.これからどんどん被説明項の現象は何か,哲学理論が何についての理論か,という問いに答えていかないといけないと思います.

例えば主流の生成文法論者はもうはっきりと,統語論が何についての理論か答えている訳です.統語論は,脳内のどこかに局在化された言語機構の計算幾何学的な特徴を抽象的に記述したもの,です.ですので,この文は文法的だなあ,あ,この文はちょっと文法的でないなあ,という直感はぶっちゃけどうでもいいわけす.それはいろいろな要素が混在した最終的なアウトプットに過ぎない訳ですから.哲学的意味論が生成文法学者にどこまですりよっていくか,というが見物だと思います.というわけで上の実験の方向性は面白いとおもいます.しかし,むしろ,西洋人は--とかそんな悠長なことを言ってないで,そろそろ本気でその直感の由来をさぐらないといけない地点に来てると思ったので,ちょっとおもしろかったわけです.

線引き問題についてですが,どの科学分野も,直感そのものが言語哲学や言語学みたいに「データ」としてあつかわれてることはないですよねえ?

10:54 午前  
Anonymous 匿名 said...

うむ.直感の由来なんて話になると,もう哲学というより認知科学ですね.相変わらず自然主義的ですな.でもそうなってくるとなんだか哲学者の仕事がなくなっていくような気がして,自然主義的な方向性ももちろん面白いと思うのだけど,いまや古臭い感もするアームチェアな言語分析も私は好きです.たぶんもともと理系なんで,そういうのに憧れがあるのかもしれませんが.

>どの科学分野も,直感そのものが言語哲学や言語学みたいに「データ」としてあつかわれてることはないですよねえ?

むしろ科学の特徴は直感を超えたところを研究しますからね.直感そのものを「正しいデータ」として扱う分野はないでしょうね.直感をデータとして扱うのは考えられるものとしては,それこそurbeくんのいう「直感の由来の研究」くらいじゃないんでしょうか.

11:09 午前  
Blogger urbe said...

うーんそんな自然主義的な気持ちもあんまないんですけどね.僕はかなり合理主義者なので,少なくともクワイニアンでは絶対ないと思います.アームチェアでもなんでも使えるものは使おうというくらいな気持ちで.「原理的にアームチェアで僕らの知りたいことが分かる」と分かればそれにこしたことはないかと思います.知りたいことに応じて先端科学とほぼ同じことをするのはデカルトやカントからの伝統だと個人的には思ってるんですけど,この見方ってそんなにへんでしょうか?結構本気で科学は哲学の部分集合だとおもってるんですが,あるいはその逆...
競合する?見方を尊重しますが,歴史的にみて哲学と科学を区別しても意味はないと思うのですが.どうでしょう.

直感云々と言ったのは,統語論は直感がほんとに「データ」だからです.要するに計測機器の目盛りの値です.統語論はだんだん洗練されて,そうしたデータが何を示しているのかというのがだんだん分かってきました.言語哲学はどうなのだろう,と.というのが最近の疑問です.

1:50 午後  
Anonymous 匿名 said...

いいか・悪いかはともかく,僕の思うのは,(哲学と科学は)やはりかなり違うなあという感想を持っています.議論の進め方,研究の仕方,論文の書き方から発表の仕方までやはりまるで違うなあ,と.文献解釈的な研究はもちろんですけど,分析哲学や科学哲学も(科学基礎論は,その名のとおりほとんど区別がつきませんが).歴史的に見ても,近代以降は科学者兼哲学者は多いし,その科学における研究と哲学における研究は根本のところで強い結びつきはあるけど,でも,やはりたとえば「デカルトの科学の研究」と「デカルトの哲学の研究」という風にわけることができる.特にライプニッツなんてそう.ただ,最近は研究対象に関しては,確かに近くなってきましたよね.それがまた最近,哲学においてもっと科学を取り入れよう,という動きになっているんでしょうね.

8:01 午後  
Blogger urbe said...

あえて論争的になりますが(というのも皆がどう思ってるかが凄く気になるからです),

>進め方,研究の仕方,論文の書き方から発表の仕方までやはりまるで違うなあ,と.

その通りだと思います.しかし歴史的偶然的な要素を除いていって,そこに根本的な違いが残るかどうかは問うていい疑問だと思います.どこに何学部があって,どう教えられているかなどは無視できないでしょうか.
方法論についてですが,実際試料を作って自分で実験してノートをとって,哲学学会以外のところで発表して論文を書いている「哲学研究者」は反例です.少ないですがもちろんそういう人はいます.そういう哲学者は科学モードと哲学モードを使い分けているのでしょうか.

原理的な要素で,哲学と科学を区分することは出来るかも知れません.かたや概念分析,かたや経験に依存する,といった感じに.クワインは出来ない,といいました.僕はわかりません(多分区別はあるとは思います).

僕はデカルト科学の研究とデカルト哲学の研究の区別はできないという印象をもっています.少なくともデカルト哲学抜きにどうやってデカルト科学を理解することが出来るのかわかりません.外延の概念抜きにどうやってデカルトが磁力を説明できるでしょうか.反対方向としては,非外延的な物体の働きをどこまで彼の脳生理学無しに理解できるか.例えば記憶するという働きは脳の構造に依存して精神の働きではありません.

>と科学を取り入れよう,という動きになっているんでしょうね.

かつて,現象学者のものを読んで,猿はこういう行動をとる,とか赤ちゃんはこういう能力を持つ,だからこうです,とかいう悲惨な議論を沢山目にして,「科学をとりいれる」という言葉にすごく懐疑的になってしまいました.というわけで僕は「とりいれる」べきではないのではないかと考えています.お互い包含関係なので,必要なときがくればおのずと結ばれると思っています.概念分析で問いに答えが出ればそれにこしたことはない,と.

1:40 午前  
Anonymous 匿名 said...

>デカルト哲学抜きにどうやってデカルト科学を理解することが出来るのかわかりません.

どうしてデカルトが「科学研究において」こういうアイデアを出したかというのは彼の哲学抜きには語れないでしょうね.同様にアインシュタインの相対性理論も彼の哲学抜きには理解できないでしょう.でもそのことと,デカルトの仕事のうち「これは科学的」「これは哲学的」とわけることはできるんじゃないでしょうか.

で,「方法論についてですが,実際試料を作って自分で実験してノートをとって,哲学学会以外のところで発表して論文を書いている「哲学研究者」は反例」でしょうか.むしろ,検証例のような気がします.つまり,彼は哲学者集団のパラダイムの中で研究してきたのに,「科学的」ということをいえる仕事をしているので,思想と,仕事や方法論・論文の書き方は分離できて後者をもって科学的か哲学的か判断できるという.

>悲惨な議論

そうですね.それは同意します.だからこそ,僕はむしろいまの科学の成果が云々と言っている哲学研究より,概念分析で行けるところまで行こうとする哲学研究の方がすきです.

11:38 午前  
Blogger urbe said...

>同様にアインシュタインの相対性理論も彼の哲学抜きには理解できないでしょう.

ずばり.なのでアインシュタインの仕事を哲学と呼んでもいいのではないかと(呼ぶのは自由だといわれてしまうかもしれませんが)

>デカルトの仕事のうち「これは科学的」「これは哲学的」とわけることはできるんじゃないでしょうか.

できる思います.僕はしかしここまで相互に依存するのなら分けてどうするんだろう,といつも思う訳です.

>思想と,仕事や方法論・論文の書き方は分離できて..

うーん実際分離しているのかなあやはり,とは思います.僕の言ってることをまとめると,医療や工学などのとりわけ応用学問以外の学問は全部「哲学」です,と言っているだけかもしれません.するとあまりおもしろい意見ではないかも知れませんが,僕は半ばそれを信じています.

4:05 午後  
Anonymous 匿名 said...

う~ん,要するに科学って純粋経験によるものでなく,パラダイムに支配されているじゃん?てことですか?具体的に言うと,たとえば近代以降の科学は機械論を前提にしているとか.そうだとすると,そのとおりだと思いますが・・・.ああ,そういう意味で「科学は哲学の部分」ということなのかな?うん,それだと私もそう思います.私も博論で「科学の特徴づけをするとき,科学は西洋形而上学の伝統から生まれたことに留意しなければならない」というようなことを書いたし.ただ,どういったらいいんだろ?すでにあるパラダイムを前提とした上で(それを自明のものとして受け容れたうえで)の科学研究って哲学じゃなくて科学だと思うんですよ.言っている意味わかりにくいか.

9:59 午後  
Blogger urbe said...

あ、なるほど。そういう考えはしてませんでした。僕の強調はやはり長期的な目標について、哲学も科学もそれほど変わらない、ということです。何か問いがあってそれに答えようすとする、という目的です。「世界が何でできてるのか知りたい」「宇宙の果てを知りたい」「道徳の起源が知りたい」「自由意志があるのか知りたい」などなどです。何かが知りたくて、それぞれの方法で、方法に多少の違いがあれど、謎解きをしようとする、というわけです。

そういう意味で応用以外は全部哲学じゃないのか、といことです。パラダイムが異なっても、なんでわざわざそんなことするねん、という動機付けは似たようなものだと思うのですが、違うでしょうか。

7:16 午前  

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