HakuTouGin

年來自分が考へた叉自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力を込めて現在に働けというのが乃公の主義なのである。                      「倫敦消息

2005/10/31

日記 10/13/2005

日記がスティッカーズに残っていたので,はりつけてみよう.


僕はレキシカル意味論には哲学的な帰結が存在論認識論ともに大きくあると思っている.それを具体的に示すのは博論の目標である.

今日三つも思い切って日本語の言語学本を買ってしまった.高い!くそ高い!一万数千円かかり,ジュンク堂でジュンク堂のコーヒがのめる券をもらったくらいだ.

西山佑司,『日本語名詞句の意味論と語用論
指示的名詞句と非指示的名詞句』
ひつじ書房, 2003.

影山太郎,『文法と語形成』ひつじ書房, 1993.

西垣内泰介・石居康男,『英語から日本語を見る 英語学モノグラフシリーズ13』研究者.

言語学とかいう分野は,少しだけ首を突っ込んでみて,外から見てみると,どうもだいぶごっちゃごちゃした分野だ,という印象がある.哲学並みにごちゃごちゃしてるんじゃなかろうか,とまで思うほどだ.チョムスキー流の統語論だけでなく,なんとかやらなんとかやら,ヘッドドリブンなんとかやら,ようするに普通は習うことすらないのでよく分からないんだが,いろんな流派があって,ややこしい.それでいて,心理言語学とか認知科学でちゃんとアーキテクチャも考えなきゃいけないんだから.あと自然言語処理もか.まあ,他の自然科学の事情を知らないからどれほどごちゃごちゃしているのかいいにくいが.

まあでも,僕の世代にとっては,いうて,最初の過渡期を体験せずには済んだ,というのはあるかもしれない.もう教える方も,だいぶ何を教えるかのまとまった考えはあるような感じがある.しかし,日本のうちの大学で,教授が生成文法の初等クラスで,ちょむすきーの基本的なマインドセットを教えずに,テクニックだけ教えたことを僕は未だに恨んでいる.哲学への寄与がどれくらいあるのか見誤ったからである.

しかし,今学期,日本語学?の授業に出るようになってから,いろいろ日本のローカルな事情を知ってきた.どうも昔はもちろん国語学,と呼ばれて色々蓄積があったようだ.でもちろん生成文法の影響がだんだんとあるようだ.しかしでもやはり昔ながらの分析というか,生成文法一本という感じでは,全くないようでもある.こういうのは非常に歴史的事実だなあ.英語学,日本語学という区別もすごく歴史的な区別だなあ,と.もちろん歴史的とは蓋然的というような雰囲気で使っている.本質的ではない.でも大事である.おそらく.

日本語の言語理論に関しても僕は過渡期を体験しなくていい世代なのかもしれない.上記の著者などを見ると,みんなだいたい若い頃にPhDをアメリカでとってきたようだ.USCとかMITとかね.で,言語学をばりばり日本に輸入,適用した人たちなんだろう.もうすごい量の蓄積がある.インド人教授が前,統語論は英語と日本語の天下や,と言っていたことが印象に残っている.確かに,なぜだか,日本人の言語学研究者は非常に多い気がする.気のせいだろうか.哲学の海外PhDがこんなに少ないのが異常なだけだろうか.