HakuTouGin

年來自分が考へた叉自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力を込めて現在に働けというのが乃公の主義なのである。                      「倫敦消息

2007/03/25

二件下のコメントの続き

コメント欄がうまく動かないが,もうあきらめて,カットアンドペースト.

---
森田 said...

う~ん,要するに科学って純粋経験によるものでなく,パラダイムに支配されているじゃん?てことですか?具体的に言うと,たとえば近代以降の科学は機械論を前提にしているとか.そうだとすると,そのとおりだと思いますが・・・.ああ,そういう意味で「科学は哲学の部分」ということなのかな?うん,それだと私もそう思います.私も博論で「科学の特徴づけをするとき,科学は西洋形而上学の伝統から生まれたことに留意しなければならない」というようなことを書いたし.ただ,どういったらいいんだろ?すでにあるパラダイムを前提とした上で(それを自明のものとして受け容れたうえで)の科学研究って哲学じゃなくて科学だと思うんですよ.言っている意味わかりにくいか.

9:59 午後

urbe said...

あ、なるほど。そういう考えはしてませんでした。僕の強調はやはり長期的な目標について、哲学も科学もそれほど変わらない、ということです。何か問いがあってそれに答えようすとする、という目的です。「世界が何でできてるのか知りたい」「宇宙の果てを知りたい」「道徳の起源が知りたい」「自由意志があるのか知りたい」「数学的知識はどうやって正当化されるのか知りたい」などなどです。何かが知りたくて、それぞれの方法で、方法に多少の違いがあれど、謎解きをしようとする、というわけです。考えてみた結果,概念分析で謎が解ける,と判断したらそれはそれでいいわけです.または経験をこえるから科学では無理,と判断したらそれはそれでいいわけです.その判断もその人の哲学/科学の一部です.

そういう意味で応用以外は全部哲学じゃないのか、といことです。パラダイムが異なっても、なんでわざわざそんなことするねん、という動機付けは似たようなものだと思うのですが、違うでしょうか。基礎科学はどうやっても「生き物って何」とか「宇宙の果てはどこ」とか「宇宙は何で出来てるの」とか「時間って何」といった疑問に究極的には答えようとしていると思うのですが.単に,なにかが知りたいから,という動機です.



7:16 午前

1 Comments:

Anonymous 匿名 said...

なるほど.「答えようとしている究極の問い」が同じだというわけですね.そうなのかもしれません.視点の問題だといえば視点の問題ですね.ただ,その究極の問いへ至るまでに問われる問いやその問いに答える方法はかなり違うと思うので,これらをわけることは意味があること(学生の訓練の仕方・学会をわけるなど)だとおもいます.

4:43 午後  

コメントを投稿

<< Home