HakuTouGin

年來自分が考へた叉自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力を込めて現在に働けというのが乃公の主義なのである。                      「倫敦消息

2004/03/10

デューイ

山田英世,1966『J・デューイ』(人と思想 23)清水書院.「I 精神的風土」「II ジョン=デューイの生涯」

日本語の書籍を研究室に置きます,ってことで大量購入されたうちのひとつ.まだ図書館のシールとかついてないんだけど,どうせ時間かかるからってことで,「お貸ししますよ」て言われたから借りてきた.

このシリーズは全部買ったそうだ.あと世界の名著—中くらいのおっきさのやつ—と,現代思想の冒険者シリーズ絶版以外と,双書プロブレーマタ全部.「冒険者シリーズ」のクワインは絶版なんだな,しょぼん.後何が抜けてんだろ?

プロブレーマタはどれもマジ読まなあかんくて,気後れしたから借りてこなかった.易きに流れて,このデューイ.伝記をまず読む.なかなかおもろい.

(1859 10/20〜1952 6/1)
食料品やの三男,庶民の生まれ.バーモント大学卒業後高校教師を少しした後,ジョン・ホプキンス大学院で哲学を.ヘーゲルにはまる.「カントの心理学」で学位.就職がヤバかったが,なんとか恩師モリスのおかげでミシガン大学の講師に(25歳).モリスが死んで主任教授に(29歳)ジェームズに影響をうける.G. H. ミードが同僚に.

シカゴに移る(34歳).ジェームズと避暑地で知り合う.
もめて辞職してコロンビア大学へ(45歳)
来日して新渡戸稲造のうちに泊まる(1919, 59歳).
中国には結構長いこといて,「白話運動」の胡適(こせき)が世話.
トロツキーの査問委員を務め,『無罪』を出版.反動とか言われたりもする(1937).

カクテルを作る名人だった.忘れっぽく,自分の子供をよその子と思ったりする.二度結婚.結構おしゃれには気を使った,快活な人柄でさっぱりしていたそう.分析系を悪し様に非難したとのこと.

ちなみにだが,図書館で見られる分類の元ネタ, Dewey Decimal Classification デューイ十進分類法は別のデューイが作ったよう.